金英堂薬局と国分町  大内エイ(大正元年生まれ

国分町と言ってもね、私が嫁いできた頃(昭和16年)は金英堂は今の場所ではなく虎屋横丁だったのよ。今のホテルユニバース辺りに借家していたの。あの頃は皆、借家でね。その辺り一帯の土地は「都川」という料亭だったの。うちの隣は「初都(はつみやこ)」という芸者置屋だったわね。その向かい側にも「よし本」という芸者置屋があって、よく人力車が止まっていましたよ。一番町の「村上屋」さんは昔から今の場所で、当時は小間物屋さん、櫛やかんざしを扱っていたの。櫓町は花柳界でしたからね、虎横にも「松竹」など料亭があったし、国分町通りより、華やかな雰囲気でしたよ。

今のうちの向かい側(現「猪俣ビル」)は、七十七銀行だったわね。格子戸があって、小学校みたいな建物だったなあ。国分町は奥州街道だったから、戦前は旅館がたくさんあったの。菊平旅館、大泉旅館、針久旅館、瀬戸勝旅館とね。戦中は兵隊さんや立派な将校さんなどのお客さんが行き来していましたよ。

今のこの金英堂の土地は、針久旅館があった場所を、終戦後、隣の中嶋堤灯やさん(現「満州飯店」)のお世話で買ったの。焼け跡からは、針久さんが戦中に埋めたらしい瀬戸物が出てきたのよ。

戦後すぐの国分町には東京の支店が並んでね、「コロンビア」「資生堂」「パイオニア」「大和ハウス」とかね。薬局のお客さんは戦前は、まあこの近所に住む人だけど、さっき話したように花柳界の人が多かったわね。胃腸薬と風邪薬は自家製で、毎日皆で調合していたのよ。

昭和40年代以降は、ママさんたちもよく寄っていきましたよ。独身だからアパートを作って自分の生活基盤をちゃんとするんだとか、独身のママさんはしっかりしていたわね。最近は国分町に住んでいる人が少なくなってきているから、お客さんは、国分町に来る人、遊ぶ人が多くなってきていますね。

昔の町内の人は、今の人たちほど忙しくないからね、仲もよくて、何かっていうと集まっていましたよ。うちの主人も選挙とお酒が大好き。政治家にでもなりたかったようで、進歩党の宮城県幹事長とかいって出歩いてばかり。

私はいつも店に居たから、たまに思い切って、細横丁(現在の晩翠通り)東北劇場のナイトショーに行ったりすると、運悪く主人が先に帰ってきちゃったりね。

国分町の奥さんたちは皆よく働いたのよ。商人の旦那が遊ぶのは仕方ないんだって。置屋にだんなをよろしくと奥さんが言いに行くと、置屋さんがお客さんとして店に来る、世の中はそう回ってるみたいよ。

今の国分町は、住んでいる人が少ないからねー、また、人が住めるような町になってほしいと思うことがあるわね。歳を取ると、「まちなか」の方が暮らしやすいのよ。歓楽街とは言っても人が住んでるまちって、何か雰囲気も違ってくるのではないかしら。 

国分町親交会 会報第7号 国分町の今昔のインタビューより

2005年10月28日

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